千年の歴史をひもとく

1.乾しいたけ食の歴史-9~13世紀
2.乾しいたけ食の歴史-15~19世紀中頃まで(江戸時代末)
3.乾しいたけ産業の夜明け-明治~太平洋戦争末期(1967~1944年)
4.乾しいたけ産業の勃興-昭和20年~昭和40年代中頃まで(1945~1960)
5.乾しいたけ産業の勃興―(前回の続き)
6.乾しいたけ産業の勃興(前回の続き)
7.乾しいたけ産業の勃興(前回の続き)
8.輝ける黄金時代-昭和46~昭和60年(1971~1985)
9.輝ける黄金時代(前回の続き)
10.輝ける黄金時代(前回の続き)
11.厳しい冬の時代―昭和61年~平成18年頃まで
12.厳しい冬の時代 (前回の続き)
13.雪融け、明日への道(平成19年~)
14.雪解け、明日への道(前回の続き)
15.雪解け、明日への道(前回の続き)
16. 雪解け、明日への道(前回の続き)
17. 雪解け、明日への道(前回の続き)

1.乾しいたけ食の歴史-9~13世紀

千年を超える長い歴史

わが国で乾しいたけが何時頃から食べ始められたかは、はっきりしないが、9世紀頃、中国の食文化が入ってきたに違いない。恐らく、わが国で食べるというよりは中国への輸出が主目的だったのだろう。

生(なま)を乾して食べる発想は古代中国人の優れた知恵で、保存に都合が良いばかりか、乾せばうま味が増すこともよく知っており、乾物の多くは中国で生まれている。

乾しいたけ渡来は、伝説では弘法大師(774~835)が唐(中国)から帰国後、乾しいたけの食習慣を伝えたと言われる。真偽は確かめる術(すべ)もないが、当時、わが国はあらゆる文明文化を先進国の中国から学ぶのに懸命で、茶は9世紀初頭、僧の永忠が唐から茶を持ち帰り、嵯峨天皇に献じた記録があり、乾しいたけも弘法伝説はともかくとして同時期か、その前後とみて可笑しくはない。

わが国の乾しいたけの殆んどが中国へ

文献に乾しいたけ(当時の呼び名は苔(たい)または椹(じん)、日本産は和椹)が初めて登場するのは永平寺の開祖、道元が著わした「典座(てんぞ)教訓(1237年)」で、仏法を学ぶため留学していた道元が中国の老僧(典座)から日本船に積んでいった日本産乾しいたけを題材に教えを受ける逸話が幾つか記されている。

中国への日本産の輸出は、恐らくわが国に乾しいたけの食文化が渡来した9世紀頃、同時に始まったと考えられる。当時は野生しかない時代で、わが国で採れる量は僅かしかなかったが、その殆んどが中国への輸出に向けられていたのだろう。

中国でも、しいたけは採れてはいたが、日本産を求めたのは、美味しさ、姿、形など品質の点で、自国で採れる乾しいたけよりも格段に勝っていたからに違いない。当時、船の往き来もままならない遠い日本から高い金銭を払い、わざわざ日本産を取り寄せたのは中国が大国で財力もあったが、それだけ食材としての魅力があり貴重な存在であったからだろう。

乾しいたけを世に知らしめた「典座教訓」

典座は台所を司る僧、つまり食事係であるが、禅宗では生活そのものが修行で、とりわけ典座は重要な仕事とされていた。典座教訓は、その心得というよりも禅の教えを説いた教本といってよい。

この典座教訓に乾しいたけを題材に二つの説話が収められているが、2001年の道元生誕800年祭には、「椎茸典座」という狂言にまでなっており、典座教訓の中で乾しいたけの存在感は大きい。

道元は入宋時(1223年)、浙江省寧波の港に停泊中の日本船に暫く留まっていたが、五月のある日、ひとりの老僧(典座)が日本から積んでいった乾しいたけを買いにやってきた。

道元は、この蜀(四川省)生まれという老僧と言葉を交わすが、教えを乞う折角の機会と思い、船に泊まっていくようお願いをする。

ところが、老僧は「明日は五月五日の節句で私は皆んなにご馳走を作らねばならないので今日、帰らねばならない」と断る。道元は「寺には典座が何人もおられるのだから、貴方ひとりがいなくても何とかなるのではないか」と重ねてお願いするが、老僧は「これこそ修行だと思っており、他の人に任せるわけにはいかない」と肯(がえ)んじない。

道元は、それでもさらに「貴方ほどのお年で、弁道(座禅、念仏、お祈りなど)や、古人の公案を読むこともしないで、わずらわしい典座の職につき食事を作ることに、何か良いことでもあるのですか」と尋ねると、老僧は大笑いして「貴方は外国からきた勉強熱心な好人だが、未だ、弁道や、文字の何たるかが分かっていないようだ」と厳しい答えを返された。

道元は、この言葉に、はっと気がつき恥じ入りながら「文字とはいかなるものですか、また弁道とはいかなることですか」と尋ねると、老僧は「今、貴方が尋ねたこと、そのことが文字であり、弁道で、その尋ねそのものに、つまずきや間違うことがなければ、それが即ち、文字を学び、弁道修行をする人といえるのだ」という。

道元は、その時、その言葉を理解できなかったが、その様子をみた老僧は、もし、まだのみ込めないようであれば何時か私の育王寺に来なさい、文字の道理をゆっくり話そうといって立ち上がり、もう日が暮れそうだから、急いで帰らねばと呟きながら立ち去った。

暫く時が経ち、道元が天童山景徳寺にいた頃、昼の食事を終え渡り廊下を歩いていると、用という老典座が仏殿の前で乾しいたけを陽に乾していた。老典座は陽ざしが強く敷瓦も焼けつくような暑さの中で、笠も被らず、いかにも苦しそうである。

道元は近づいて、乾しいたけを乾すようなことを、どうして下々の者にやらせないのか尋ねたところ、用典座から「他人がやったのでは自分がやったことにはならない」との答えが返ってきた。そこで、道元は「こんな暑い日にやるのは余りにも生真面目過ぎる」と問うと、用典座は「今でなければ何時、乾す時があるのか」と答えるのであった。

道元は廊下を歩きながら、心中ひそかに典座職が大事な仕事であることを悟った。

これらの逸話は、料理家、辻嘉一の料理心得帳や、小説の神様といわれた横光利一の代表作「旅愁」の中にも取り上げられている。

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2乾しいたけ食の歴史-15~19世紀中頃まで(江戸時代末)

料理書への登場は16世紀に入ってから

わが国における乾しいたけの食の歴史は9世紀頃に始まるが、15世紀までの6百年間、乾しいたけは典座教訓(1237年)を除いて文献には全く現れない。

この間、殆んどが中国へ向けられ、国内では口にすることが余り無かったからだろう。

椎茸という文字が最初に記された文書は、足利幕府の政所執事代、蛭川新右衛門地親元日記(1465年)で、伊豆の円城寺から足利義政将軍に乾しいたけを献上した記述がある。

それから数十年、16世紀に入った頃から乾しいたけは料理書に現れるようになる。

大草家料理書・食物服用の巻(1504年)の点心(菓子)乃図に乾しいたけの図が描かれているのをはじめ、朝倉亭御成記(1568年)には乾しいたけの菓子が出ており、大草家料理(1573年)には白鳥料理の匂い消しに乾しいたけ料理をすすめている。

また、里う里乃書(1573年)には乾しいたけ入りの五目飯、津田宗及茶湯日記(1578年)、同、他会記(1583年)、今井宗久茶湯日記(1587年)、行幸献立記(1588年)、利休百会記(1591年)、南方録(1593年)、文禄四年御成記(1595年)、松屋久政茶会記(1596年)などには菓子、精進、汁物、煮物などに乾しいたけが登場している。

乾しいたけが菓子に使われていたのは意外だが、奢侈品の菓子にするほど貴重だったに違いない。また豊臣秀吉が聚楽第に御陽成天皇の行幸を仰いだときの行幸献立記には、乾しいたけが入っており、乾しいたけは最高のご馳走のひとつであったことを窺わせる。

江戸時代に入り、しいたけの人工栽培が始まり、天然採取に比べ生産量は格段に増え、市中への出回りが多くなったことで、乾しいたけの料理書への登場も多くなる。

この頃になると、乾しいたけは武士階級や町家の分限者、やがて、庶民も口にできるようになるが、盆、正月、法事など「はれの日」のご馳走に限られ、汁物、煮物、五目寿しなどに使われた。

各産地の乾しいたけは大阪へ

乾しいたけが商品として取引されるのは江戸時代に入ってからである。西南日本の各産地で生産された乾しいたけは、藩や茸座(藩公認の乾しいたけ集荷人)で買い集められ、大阪を拠点とする乾物商(問屋)に集まるようになる。1736年(天文1年)の「諸色大坂積登り高調」には日向、対馬、大和、紀伊から諸藩荷請問屋などを通じ、乾しいたけが大阪の乾物問屋へ集まってきたことが記されている。

その少し前の1727年には、大阪の乾物問屋の主だった者が集まり仲間組合を作っているが、以来、大阪は昭和中頃まで乾しいたけの流通拠点として、その名を馳せることになる。仲間組合に入荷した乾しいたけは入札で乾物問屋へ販売され、全国各地の乾物卸商、乾物小売商へと渡る流通経路が確立し、乾しいたけを使うことが多かった江戸には回船を利用して江戸の乾物卸商に送り込まれた。

この時代、わが国は鎖国中ではあったが、中国へは長崎や横浜から唯一、許されていたオランダ船で輸出されていた。

しいたけの人工栽培が始まる

しいたけの人工栽培が最初、何処で始まったかは諸説がある。

巷間、広く流布しているのは寛永(17世紀)の頃、豊後の国、千(ち)恕(ぬ)の浦の炭焼き、源兵衛が始めたという説で、これは小野村雄:椎茸栽培の秘訣(昭和5年版)の中で紹介されている。

源兵衛は、炭焼きのナラの残材に多数の椎茸が発生しているのを見て思いつき、いろいろな経験を重ねるうち、原木に鉈目(なため)を入れると結果がよいことや、ナラ、クヌギが栽培に適していることを発見し、遂には椎茸の発生を促すための浸水打撲まで考えついたとされている。大分県津久見市や宇目町には昭和の代になって源兵衛の像が、また、同県緒方町には椎茸発祥の地の碑が建立されている。

しかし、この源兵衛開祖説には中村克也が「シイタケ栽培の史的研究」の中で、史実の裏付けや、小野村雄の著書以前に、大分県には源兵衛説の伝承がないこと、また、これほどの広範囲の技術を源兵衛一人の手でやり遂げるのには、かなりの無理があることなどを挙げ、疑問を投げかけている。

今ひとつは伊豆説である。椎茸栽培を伝える最も古い資料は、豊後、岡藩城主中川家記事で、1664年(寛文4年)、椎茸の栽培技術を導入するため伊豆の国、三島の駒右衛門を招いたことが記されている。

また、1744年には、幕府の三島代官、斉藤喜六郎が湯ヶ島口の山守、板垣勘四郎を椎茸栽培の師として駿河の安部郡有東木村に派遣した資料や、伊豆の石渡清助、山崎善六等(ら)は1764年から1784年、伊豆から遠州にかけて手広く椎茸栽培に取り組んでいた記録も残されている。

1800年代に入っては、豊後、佐伯藩の茸山の杣頭(そまがしら)に伊豆の斉藤重蔵がなっており、椎茸の栽培技術を地元民に伝えたという記録もある。

伊豆、豊後以外の地域では、津藩は1700年代末に椎茸栽培を直営事業で行っており、1800年代は、紀伊藩、徳島藩、山口藩、高知藩、人吉藩、鹿児島藩、名古屋藩、盛岡藩、宇和島藩、さらには」北海道にまで栽培は広がっている。

この時代の栽培は何れも自然力中心の原始的な方法ではあるが、昭和20年過ぎまで続けられていた。

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3.乾しいたけ産業の夜明け-明治~太平洋戦争末期(1967~1944年)

しいたけ栽培の技術革新

17世紀に始まったしいたけの人工栽培は長い間、半自然的な「鉈目栽培」で行われてきたが、1800年代の終わりになって栽培技術に変化が現れはじめる。

1895年、田中長嶺は菌糸のよく蔓延している榾木を粉にして、それを原木に振りかける人工接種法を編み出す。また、田中と同時代の楢崎圭三は、この田中式接種法に胞子を混ぜるなどの工夫を加え、熱心に各地へ普及している。

1900年代に入ると、さらに新しい栽培技術が幾つも生まれる。三村鐘三郎は「種木挿入法」と称し、鉈目をつけた原木の間にしいたけが発生している榾木を入れ、胞子の付着を容易にすることを考えついた。また、完熟榾木の一片を切り取り、新原木に埋め混む「埋榾法」や完熟榾木を粉にして、それに水を加えた榾汁を作り、その中に原木を漬け込む「榾汁法」も考案している。ほかにも、乗兼素冶は胞子の懸濁液を鉈目に播種する「胞子液法」を、今牧棟吉は「胞子注射法」を提案している。

しかし、何れも定着するには至らず、依然、従来からの鉈目式法が栽培の主流であった。

昭和に入ると「埋榾法」が改良を加えられ息を吹き返す、原木に一寸角の穴を開け、そこに榾木の木片を埋め込んだのである。これはかなりの好成績をおさめ、全国に広がっていった。

この時期、一方で現在の純粋培養種菌法の芽が出ようとしていた。昭和3年、森本彦三郎が、鋸屑培養種菌の接種を試みたのである。少し遅れて河村柳太郎も同じく鋸屑種菌の純粋培養をはじめるが、それらを受け継ぎ完成させたのは北島君三で、昭和12年に純粋培養種菌を全国各地に配布普及している。

この「純粋培養種菌法」は昭和17年、森喜作の種駒の発明で華を開くことになる。鋸屑が種駒に代わったことで、効率よく植菌できることで全国に普及していったのである。

それまでの鉈目式法では榾化が自然任せで不安定だったのが、純粋培養種菌法の出現で、安定したしいたけ作りが可能となり、栽培地域は広がり乾しいたけの生産量は年を追うごとに増加してゆく。

乾しいたけ生産が上向きはじめる

乾しいたけの生産統計は明治38年にはじまるが、当時の全国生産量は963トンで、静岡県が最も多く25%を占め、次いで大分県、宮崎県へと続いている。 その後、全国生産量は昭和8年頃までは800トンから1,300トンの間で推移するが、昭和9年1,500トン、昭和14年には2,000トンに達する。

しかし、太平洋戦争に突入したことで、昭和17年には1,500トンに減り、終戦の翌21年には、ついに500トンをも割ってしまうことになる。

この間、静岡県が明治44年までは生産量1位の座にあったが、その後は大分県、宮崎県と三つ巴の争いで、年により順位を入れ替えている。

主産地では生産者の組織化の声が高まり、明治39年に大分県椎茸同業組合、昭和8年 静岡県椎茸同業組合が設立される。戦争中は統制時代に入り、昭和16年、大分、宮崎、熊本、鹿児島、三重、静岡各県に椎茸統制組合、連合体として全国椎茸統制組合連合会が結成された。昭和18年には高知、徳島、山梨、群馬、なども加わって12組合となり、名称を全国椎茸組合連合会(全椎連)に変える。この全椎連は県椎茸組合を通じて乾しいたけを一元集荷し、軍需、内需、輸出それぞれの割当配給をしていた。

流通の主導権は依然、関西で、生産者からは庭先買い

江戸時代に始まった大阪の椎茸問屋中心の乾しいたけ流通は明治に入っても続く。乾しいたけは産地の生産者から庭先で、仲買人や産地問屋によって買い集められ大阪の椎茸問屋へ委託で出荷され、椎茸問屋は競争入札で椎茸卸商に販売した。

椎茸卸商は乾しいたけを選別商品化し、在日華僑や貿易商を通じて輸出、或いは乾物小売商を経て国内向けに販売した。

この時代は大阪の椎茸問屋が圧倒的な力を持ち価格の決定権をも握っており、生産者は乾しいたけの入れ目(実際の重量より、量を積み増す)を強いられ、価格も買い叩かれた。

生産者の不満は募っていたが、明治40年、設立されたばかりの大分県椎茸同業組合は入れ目の減額交渉を椎茸問屋と行い勝ち取っている。さらに同組合では昭和2年に秋子を入札販売で行っている。

乾しいたけ需要は依然、輸出が中心

輸出統計は生産統計よりも40年近くも早く、明治元年に中国へ218トン輸出されている。その後、明治9年には500トン、明治21年1,100トンと千トン台にのせるが、明治の末期までの輸出は年により差があり700トンから1,300トンの間を往き来している。

この間、輸出は全国生産量の9割にも及んでいるが、輸出先は乾しいたけ登場の9世紀以来の中国で、それは大正時代まで続く。

大正10年頃から中国は国内が混乱状態に陥り輸出は半減、需要先を失って国内生産は落ち込むが、その一方、輸出に代わる販路を国内消費へ求めたことも重なり、長い間、輸出中心の乾しいたけは、以降は輸出、内販半々へと需要構造を変えていった。

この時代、国内では乾しいたけは価格が高く貴重な食材で、盆、正月、法事など“はれの日”のご馳走、“含め煮”“散らし、巻き寿し”などに使われ、消費を徐々に伸ばしていた。

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4.乾しいたけ産業の勃興-昭和20年~昭和40年代中頃まで(1945~1960)

戦後の混乱を経て、生産は軌道に乗る

敗戦で世の中すべてが再出発の中で戦後昭和24年までは乾しいたけ生産も減り、大正以前の生産量へと逆戻りし千トンを割ってしまう。

昭和23年、農業協同組合法が発布され、大分、熊本、鹿児島、群馬など各県椎茸農協や全国組織の日本椎茸農業協同組合連合会(日椎連)が発足する。

昭和24年、戦争中の統制経済で国が価格を決めていた公定価格制度は廃止されるが、統制価格の撤廃で乾しいたけ価格は3分の1以下に暴落する。さら に、その年、中国に共産党政権が発足し中国への輸出は止まり、翌25年には、ポンド通貨が切り下げられ、どんこの輸出価格は4分の1にまで急落し、国内価 格は輸出のウェイトが高かっただけに前年よりもさらに下がる。

当時、生産者団体や椎茸業者は乾しいたけを生産者から買い取りで集荷していたことから大きな損害を受け、業態の縮小、撤退、倒産が相次いだ。

このような厳しい中での再出発ではあったが、乾しいたけは種駒の発明など栽培技術の確立で安定生産ができるようになり昭和25年には1,400トン に戻し、その翌年からは2,000トン台に、昭和30年には3,000トンを超へ、昭和40年、5,000トン、昭和45年には8,000トンに達し、豊 凶による年の増減はあるものの順調に生産量を伸ばしていった。

産地は、それまで静岡、大分、宮崎の間で首位の座を競っていたが、昭和18年に静岡が脱落、昭和27年に大分が抜け出し首位になり、以後、大分、宮崎、静岡の順となるが、47年頃から静岡は熊本にも抜かれ、さらに順位を下げる。

この頃、林野庁所管の国有林も昭和21年、椎茸増産5カ年計画をたて熊本、高知、大阪営林局で国、自らも椎茸を栽培し販売している。

乾燥法の発達で品質向上

しいたけの乾燥は明治時代までは“木干し”(採取後、天日で乾かす)“焼子”(しいたけの足に串を通し火で炙る)“室焼き”(しいたけを釜に入れて蒸す)などの方法で行っていた。

明治時代の中頃から木炭や薪を使う火力乾燥が始まるが、戦後、乾燥技術は熱源の乾燥室外への設置や旋風式回転乾燥機の考案など画期的進歩を遂げる。特筆すべきは何れも大分の生産者、松下徳市、財津政男、大塚重長などの手でなされたことである。

乾燥技術の発達で乾しいたけの品質は格段に良くなる。天日乾燥では虫やごみ付着の心配だけでなく、色沢は悪く、乾しいたけの含水量も気乾湿度の 13%程度にしか下がらなかったが、火力乾燥で、それらすべてが改善され含水量も10%以下にまで下がり保存は容易となり商品価値が向上した。

山村地域の“希望の星”

この時代、山村地域では乾しいたけに大きな期待がかかっていた。というのも山村地域は立地条件が厳しいことから収入を得られる産物は木材、木炭、薪など限られていたが、当時は石油、プロパンガスなどへの燃料革命が進行中で、木炭、薪の需要は急減していた。

そんなとき、乾しいたけは木炭、薪を採取する薪炭林をそのまま使え、しかも市場価格は高く、山村を潤ほす所得源として大変、魅力的な産物であった。

高度経済成長期に入ると、山村地域の過疎化は進行するが、山村経済を支える数少ない農林産物の “希望の星”として乾しいたけへの期待は益々、膨らみ全国各地の山村は競いあうようにその振興に取り組んだ。

官も民も乾しいたけに夢をかけ燃えていた

昭和20年代から40年代、乾しいたけ業界は活気に満ち溢れていた。国、県、市町村、生産者、生産者団体、種菌メーカー、資器材業者など乾しいたけ関係者全員が乾しいたけ産業に大きな期待をかけ頑張ったのである。

昭和25年、農業、林業改良普及員制度が発足した。林業の中で、最もその力を発揮し活躍したのは乾しいたけのSP(専門普及員)、AG(改良普及 員)である。主産県における乾しいたけSPは概して在任期間が長く10数年にも及ぶ者は何人もいたが、○○県の何某、△△県の何某などと、その名前は全国 に知れわたるほどのエキスパートとなって、AGともども生産者の相談相手となり栽培技術や経営指導に力を尽くした。

国はまた、昭和36年から新興地域の生産者の教育に先進地の生産農家へ留学させる「山村中堅青年養成事業」を実施しているが、それと呼応するように 自発的に静岡、大分、群馬などの篤農家へ1ヵ年以上も住み込み栽培技術の習得に励んだ後進地の生産者は数多く、国の留学者ともども出身各地の産地形成の担 い手となっている。

また、昭和24年の価格暴落で経営が極度に不安定な状態に陥っていた生産者組織の再建に、国は昭和28年、林野庁長官と農林経済局長の連名で日椎連 はじめ各県の椎茸農協の再建強化を各県知事に要請、具体的な施策として、全国的共販体制の確立と無条件委託販売制度の導入についての指導を行うよう指示し た。

行政の手厚い施策もさることながら、乾しいたけ栽培を軌道にのせ全国展開させた立役者は、やはり種菌メーカーといってよいだろう。自社種菌の拡販が 目的ではあるが、競い合っての優良種菌の開発、生産者へのマンツウマン的な栽培指導が栽培技術定着の大きな力となったのは確かで忘れてはならない。

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5.乾しいたけ産業の勃興―(前回の続き)

全国乾椎茸品評会、農林水産祭など表彰行事が始まる

乾しいたけ生産は官民あげての努力で全国各地へ広がってゆくが、課題は消費が伸びてくれるかどうかで、それには先ず、乾しいたけの品質向上を図る必要があった。

昭和28年、品質や栽培技術の向上を目的とした全国乾椎茸品評会が林野庁と日椎連の共催で、初めて開催された。昭和30年代の中頃からは日椎連と全 国椎茸生産者団体協議会(全椎協)主催、林野庁後援に変わるが品評会は今日までも続いており、初期目的の達成に大きく貢献している。

また、昭和37年に始まった明治神宮での農林水産祭では、最高の天皇杯に乾しいたけ部門で、昭和40年に杉本砂夫(宮崎県)が初めて受賞し、昭和 46年 松下徳市(大分県)、昭和51年 飯田美好(静岡県)、昭和54年 朝香博(静岡県)、昭和55年 新田栄(愛媛県)、昭和57年 長要(熊本 県)、昭和61年 吉野丈実(長崎県)、平成6年 菊池六郎(岩手県)の諸氏が栄誉に輝いている。

庭先買いから市場流通へ

生産者からの乾しいたけ集荷は、それまでの長い間、椎茸業者の生産者庭先での買い付けで行われていたが、価格ばかりか、量目もいい加減で業者の言いなりで決められていた。

生産者の不満は高まっていたが、国の共販指導もあって、昭和28年、大分県椎茸農協で不定期の市場が誕生、32年からは本格的な定期市となり、昭和 31年には宮崎に商系市場が開場し、その後、昭和30年代に日椎連、全農、各県椎茸農協、それに商系市場が続々と設立され、昭和40年代には生産者団体 13市場、商系11市場を数えるまでになり、庭先買いは減り市場流通が主流になっていった。

これら市場の多く、特に生産者団体市場では生産者から無条件で乾しいたけの販売委託を受け市場で業者に入札または随意契約で売り渡した。

流通は、阪神一極集中が終わり、東京以西の産地、消費地など各地へ分散

乾しいたけの流通は、江戸時代から、ずっと阪神地域が集散拠点の座を占めていたが、江戸時代の末期頃から、静岡、九州地方など乾しいたけ主産地では独自に集荷、販売する椎茸卸商、産地仲買人も現れはじめた。

戦後、乾しいたけ生産は全国各地に広がり、生産量が伸びる中で、需要の方もそれまでの輸出中心から内需が主流となり、消費地にとどまらず産地の地場消費も増えたことで、静岡、九州各地の産地では流通の担い手として次々新規業者が参入しはじめた。

さらに各地に乾しいたけ市場が開場し、乾しいたけが容易に仕入れできるようになったことで東京や名古屋など消費地の椎茸卸商も阪神から離れ独立するなどして流通業者は全国で200社を超えるまでになる。

長い間、阪神に集中していた流通体制は崩れてゆくが、それでも昭和40年代頃までは、阪神地域は乾しいたけの最大の集散拠点で流通をリードしていた。

庭先買いの時代、椎茸業者は生産者から不当とも言えるほどの安い価格で乾しいたけを仕入れ、高く販売して過剰利益を得ていた。

その後、市場流通が主流となって、仕入れは競争価格となり旨味を失うが、まだ、季節による価格の上がり下がりに主たる利益を求める投機的な相場稼ぎ 商法が暫くは続いていた。生産期の比較的、価格が安い夏までに仕入しておけば需要期の秋以降には必ずといいほど価格が上がり、その時、販売すれば差益を大 きく上げることができたのである。加えて生産量は年々、急増していたことから業者の取扱量も毎年のように増え、取扱金額の増加で、これまた利益を出せた。

しかし、このような比較的、楽に収益を得られることが、集配機能が本務の正統な流通業への脱皮を遅れさせたのは否めない。

輸出検査の実施で日本産の信用が高まる

生産急増で乾しいたけは需要の拡大を強く迫られていたが、当時、乾しいたけは輸出への依存度が高いこともあって、輸出の伸びに大きくかかっていた。

輸出を後押し、強力に推し進めたのは輸出規格と国による強制検査である。

乾しいたけは天産品ということもあって、年により品質にかなりの差異があるばかりか、輸出商社が違えば品質も異なるなど、肝心の品質と価格の関係がはっきりとせず扱い難い面があり、市場流通品として問題を抱えていた。

国は昭和23年、輸出品取締法を制定、乾しいたけも検査品目に指定し、任意の輸出検査を行なうが、本格的な検査が行われるようになったのは、昭和33年に輸出検査の基準等を定めた省令が出され、国による強制的な輸出検査が始まってからである。

輸出検査基準では、等級は上級、並級、低級に、銘柄は上級では“どんこ”“花どんこ”並級は“どんこ”“こうしん”に分けられた。

海外における実際の業者間取引では、並級どんこの取引が最も多く、取引業者間では、並級を任意的に、並、2並、3並、4並、5並などに細分し、さら に、その各々が輸出業者のPB(○○杯)によって売買された。結果、実取引の中では同等級でも業者PBの信用力の違いで等級格差以上の価格差が付いてい た。

輸出検査は、現物取引から情報取引へと流通の円滑化に資したばかりか、日本産の信用を高め、日本産ブランドを確立したといえる。

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6.乾しいたけ産業の勃興(前回の続き)

乾しいたけ輸出は香港を中心に世界へ広がる

中国への乾しいたけ輸出は9世頃から始まり、徳川の鎖国時代も途絶えることなく続いていたが1949年、中華人民共和国の出現で停まってしまう。代 わって昭和25年(1950年)からは、中国を逃れた富裕層、料理人が多数移り住んだ香港が新たな主力輸出先になり、相前後して華僑が多く住むシンガポー ル、アメリカへ、さらにカナダ、オーストラリアなどにも輸出の輪を広げていった。

輸出量は戦後、昭和24年までは10~300トンにまで落ち込んでしまうが、昭和25年には900トン余に戻し、翌年、1000トンを超え、以降、年によって多寡はあるものの千数百トンへと数量を伸ばしてゆく。

2千年前、中国で始まる乾しいたけの食文化は華僑が世界中に散らばるにつれ、その食文化も共に伝わっていったに違いない。とりわけ共産党政権に代 わった20世紀中頃から中国人の海外移住は一段と進み、それと歩調を合わせるかのように、わが国からの乾しいたけ輸出は世界中へ広がっていった。

輸出先は昭和30年代に入ると40ヵ国を超えるが、国別の輸出量は中国系の居住人口の多寡と完全に相関している。香港が圧倒的に多く、次いでシンガ ポール、北米の順で、その他カナダ、オーストラリア、さらにヨーロッパなどにも輸出されるが、数量は上記3ヵ国とは桁違いに少ない。

使用量の多い香港、シンガポールでは乾しいたけの美味しさなど持ち味をよく知っていることから、使われる品柄は“どんこ”に限られる。中でも中華料 理のレベルの高い香港は品質への要求度が最も高く、シンガポールはそれに比べ、やや落ちるが、わが国で生産される“花どんこ”の殆んど全部、“どんこ”も 大半が、これら2国に輸出されていた。

アメリカ、その他の地域は中華料理のレベルが低いこともあって、輸出品柄は“こうしん”が多かった。

これら諸国への輸出は大手総合商社、中小商社や、在日華僑を介して行われていたが、昭和40年代後半頃からは輸出入業者間取引の固定化が進み、商社を介さない椎茸業者による直接輸出も行われるようになる。

海外における乾しいたけ流通

当時、英領の香港は、自由貿易で経済は栄え、共産政権の中国を逃れた富裕層が多数、移り住み、中華料理のレベルも高く、乾しいたけの一人当たり消費量は我が国の数層倍にも達していた。

乾しいたけは日本産が大半を占めていたが、昭和20年代後半頃から中国産も入り始め30年代中頃には数量を伸ばし、日本産を脅かした。当時の中国産は原木栽培で、中には“連平産”“湖北産”など良品もあったが、概して品質は悪く価格の安さがうけた。

ところが、30年代後半頃から中国では文化大革命の嵐が吹きすさび、その影響で中国産の香港輸出は急激に減り、また、その頃からは韓国産も入ってきていたが数量は少なく、再び日本産の独擅場となった。

乾しいたけ取引は何れも南北行(南の海産物、北の陸産物を取引するところ)に店を構える開盤商(卸商)が明盤(価格を表示しての取引)や暗盤(相対 で価格を決める取引)で海味商(小売商)に乾しいたけを売り渡した。昭和40年代、乾しいたけを扱う開盤商は20数社、海味商は百社を超え賑わっていた。

また、香港は東南アジアへの再輸出もかなりの数量にのぼり中継基地としての性格をも兼ね備えていた。

シンガポールでは香港ストリートに店をもつ乾物商を中心に乾しいたけは卸し、小売された。アメリカへの輸出は香港、シンガポールとは異なり在日華僑と在米華僑間の取引が過半数を占めていたが、在米の中華街の料理店や中華系の小売店に売られた。

これら諸国で、乾しいたけを使うのは中華系を主体にしての東洋系民族に限られ、その他の民族は外食で食することはあっても家庭では皆無といってよい。

生産が伸びて需要は内外逆転、内販が主流に

混乱期の戦前、戦後を除き、乾しいたけは千年にも及ぶ長い間、需要の大半を輸出が占めていたが、昭和29年、 やっと国内消費が輸出を上回るようになる。その時の国内消費量は約1,500トンで、以降、昭和36年に3,000トンを超え、昭和45年には5,000 トン超と、国内消費は至極、順調に伸びた。

昭和30年代までの国内消費は家庭での使用が圧倒的で、依然として盆、正月、法事など“はれの日”を主体に“含め煮”“巻き寿し”“散らし寿し”の食材として使われた。

昭和30年代中頃になると、折からの高度経済成長で生活水準が向上し、食は豊かに、食生活の洋風化も進み、 “はれの日”の風習は次第に薄れてゆくが、そのような中で、乾しいたけは家庭用も伸びるが、給食、料理店など業務用分野の伸びが大きくなりはじめる。

昭和30年代中頃の乾しいたけの需要分野別比率は、おおよそ家庭用35%、贈答用5%、業務用30%、輸出用30%といったところである。

この中で家庭用消費をみてみると、家計調査統計がとられだした昭和38年には乾しいたけの1世帯当たり年間消費量(家庭用と贈答用)は215gで あったのが、そのあと減り続け昭和42年には129gにまで落ち込み、昭和43年からは上昇に転じ、昭和45年185gまで回復、増加傾向を示すようにな る。

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7.乾しいたけ産業の勃興(前回の続き)

乾しいたけは“はれの日”には欠かせない食材で、価格もまた高かった

乾しいたけが、どれほど珍重されていたかを窺い知るこんな話がある。

往時、田舎では法事などに招かれると食膳の大半を持ち帰り家族とも分け合ったが、中の乾しいたけは勿体ないと糸に吊るし再度、乾して後日のご馳走にした人もいたという。

この時代、そこまでする人はいないが、乾しいたけは、まだ味よりも貴重品イメージが強かった。

それは価格にも如実に表れている。当時の生産者価格は、昭和30年(29~31年平均)は1kg当たり880円、昭和35年(34~36年平均)1170円、昭和40年(39~41年平均)1910円、昭和45年(44~46年平均)2500円になっている。

これを2000年:100の消費者物価指数で現在価格に換算してみると、昭和30年は5100円,昭和35年 6200円、昭和40年 7600円、昭和45年 7600円で、現在と比べるとよく分かるが、大変、高かった。今日、マッタケは高価であるが、昭和40年頃まではマッタケよりも乾しいたけの方が高かったのである。

しいたけの薬効が、次々、明らかにされる

しいたけの薬効については、古くは今から約600年前、中国、明時代の呉(ご)瑞(ずい)という医者が「椎茸は気を益し、飢えず、風邪を治し、血を破る」と書き残している。また、乾しいたけにはビタミンDが含まれ、骨が弱くなる“クル病”に効果があることは以前から知られていたが、昭和30年代に入って、しいたけの薬効が多くの研究者によって科学的に明らかにされた。

そのきっかけをつくったのは種駒種菌の発明者、森喜作である。当時、乾しいたけは生産の急増で、消費拡大が最大課題となっていたが、消費を伸ばすには、薬効が何よりも消費者の心を捉えることに着目し、森喜作は研究資金を提供し、昭和37年、有本邦太郎(元国立栄養研究所長)を座長に学者や研究者を集めた「椎茸研究会」を組織する。

その成果は、先ず、翌38年に東北大学の金田尚志教授の「椎茸のコレステロール代謝の影響」の研究発表に現れ、昭和42年には、国立健康研究所健康増進部長の鈴木慎次郎は「椎茸の血清コレステロールの影響」を、翌43年、国立ガンセンター千原吾朗「椎茸の多糖類の抗ガン作用」、その翌44年、東北大学の石田名香雄教授「椎茸胞子中のインターフェロンの抗ウイールス因子」、さらに昭和46年、松田和雄「椎茸の水溶性多糖に関する研究」、翌47年、松岡憲固「椎茸のクル病を退治する研究」など、しいたけの薬効が続々と明らかにされていった。

乾しいたけの消費宣伝がはじまり、日本椎茸振興会、発足

乾しいたけの消費宣伝が始まったのは50年ほど前からで歴史は浅い。

それ以前は、生産量が余り多くなかったこともあったが、長い間、大半が中国向けの輸出で、需要が比較的安定していたことや、国内では盆、正月、法事など“はれの日”主体に出される“巻き寿し”“ちらし寿し”“含め煮”などの定番食材として、これまた、需要をしっかり掴んでおり、消費宣伝の必要性をそれほど感じなかったからに違いない。

ところが、1949年、中国人民共和国の出現で中国への輸出は止まり、輸出環境が大きく変化、国内においても昭和30年代に入って食の洋風化が進み、伝統的な“はれの日”のご馳走は次第に姿を消し、安定していた需要先に陰りが見え始めた。

その一方で、生産は全国各地へ広がり生産量が急増傾向を強めたことで、乾しいたけの需給関係は、それまでとは一変、需要拡大を強く迫られる状勢に追い込まれた。

消費宣伝のはじまりは、昭和32年7月、東京、三越で開催の全国乾椎茸品評会を核にした“椎茸祭り”で 4日間にわたって行われた。三越会場では品評会出品物の展示即売会をはじめ料理実演、各産地の民謡大会、それに銀座通りなど都内の盛り場を日経新聞の宣伝カーを先頭に産地、業者関係者が2日間、パレードし乾しいたけの良さを宣伝した。

昭和35年9月には、日本貿易振興会(ジェトロ)主催のニューヨークでの日本食品の総合展示試食会に乾しいたけも参加している。また、翌36年、海外向けの宣伝映画「日本の椎茸」を制作、ジェトロを通し在外公館に配布し、海外への宣伝活動に眼を向け始めている。

“椎茸祭りは、その後も毎年、行われたが、国内外への消費宣伝の充実強化を図るべく昭和37年に日椎連、全椎協、阪神商協(半年後、全椎商連発足し引き継ぐ)など業界は「日本椎茸振興会」を結成した。

消費宣伝に必要な経費は生産者からkg3円、業者は2円、計5円を徴収、年間予算、2千2百万円で出発した。

国内宣伝は先ず、ラジオ放送7社で10秒スポット宣伝を月曜日から土曜日まで1ヶ月間、行ったのをはじめ、需要期におけるテレビ宣伝、それに毎年、行われてきた椎茸祭りと、広報パンフレット、薬用効果資料の収集などである。海外はジェトロによるニューヨークやハンブルグでの日本食品の展示試食会へ参加している。

乾しいたけ輸入の自由化

先進諸国から貿易の自由化を強く迫られていたが、乾しいたけは国内における中国産や韓国産との競合が、さしてないということで、昭和37年10月に輸入自由化に踏み切っている。

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8.輝ける黄金時代-昭和46~昭和60年(1971~1985)

生産は全国各地に広がり急増

山村や、中山間地域は地理、地利条件が厳しく収益作物は数少なく、その中で、乾しいたけは需要も伸びており、有力な所得源として期待されたことから、乾しいたけ生産は昭和40年代、50年代、大きく伸長した。昭和46年には9千トン台に達し、49年1万トンを超え、50年代1万2,3千トンで推移するが、59年は大豊作ということも重なり史上最高の16,685トンを記録する。

産地も大分、宮崎、静岡など古くからの産地に加え、熊本、高知、愛媛が生産量を伸ばし、昭和40年代から50年代、三重、島根や岩手、群馬、栃木、茨城、新潟、岡山、山口などの新興産地が続々として登場してくる。

関東以北の地域は冬季の寒さや乾燥など栽培に困難を伴うが、それを克服する栽培技術が確立されたこともあるが、これら各地の県行政、生産者団体、種菌メーカー、生産者が一体となっての乾しいたけにかける熱意、努力が新興産地を育て上げたといってよい。

自然健康食品ブームで消費も大きく伸びる

一方、消費の方はといえば、従前からの正月、盆、法事など“はれの日”主体の乾しいたけ需要は食生活の向上で、“はれの日”の風習は次第に廃れ、乾しいたけは最大の需要機会を失いつつあった。

そのような中で生産は年々、激増していったのであるが、救ってくれたのは自然健康食品ブームである。

折から、時代は高度経済成長で国民生活を豊かにはしたが、一方、全国各地で自然破壊や各種公害などを次々と惹き起こし、人々は自然や健康の有難さや大事さを痛感させられていた。

そんなとき、乾しいたけを食べると健康になれるという「乾しいたけ自然健康食品説」を世に広くアッピールしたのがうけ、人々に歓呼の声で迎えられた。乾しいたけのコレステロール、高血圧低下作用や抗ガン作用など、昭和30年代後半から40年代にかけての薬効の研究成果が大いに威力を発揮したのであるが、極めつけはカッパホームズから出された森喜作の「しいたけ健康法」といってよい。これがきっかけとなって「にんにく」「杜仲茶」なども加わって自然健康食品ブームが湧き上がったのである。

乾しいたけが自然健康食品として人々に抵抗なく受け入れられたのには以前からビタミンDを含み、クル病に効くことをよく知られていたこともあるに違いない。

乾しいたけは爆発的な人気を呼び家庭での消費は増え、昭和50年には1世帯当たり年間消費量は417gにもなる。50年代、贈答にも人気があって中元、歳暮のベストテンに乾しいたけは常時、入っていた。

この時代は生産が急増したけれども、それをも上回る消費の伸びで乾しいたけの価格も4千円台を超え、昭和58年には作柄の不作も重なって、6,564円の高値を記録している。

輸出も頗る好調で世界50数カ国へ

輸出は昭和40年代中頃から1,600トンから2,000トン台で推移するが55年に3,000トン台になり、59年には4,087トンと、これまでの最高を記録する。

輸出先は、相変わらず香港が主体で、全輸出量の60%、次いでシンガポール20%、アメリカ10%、その他50数国10%といったところであるが、カナダ、オーストラリアなど中国系の移住人口が増加した地域への輸出も伸びている。

当時は、香港、シンガポールはニーズ諸国(新興工業経済国家群)と呼ばれ、経済、工業が発展成長しつつあり、国民生活の向上が目覚ましく食品類の購買力は旺盛で乾しいたけの需要も増えていた。

これら海外市場での中国産は、まだ原木栽培ものしかなく品質が落ち、文化大革命の最中でもあったので、入ってくる数量は少なく日本産の競争相手ではなかった。ただ、韓国産は品質も向上し、年々、輸出量を増やしていた。

生産の激増で、主産地では原木が不足し、域外からも移入

乾しいたけ原木の調達には自家所有林を伐採する、他人のクヌギ、ナラなどの林を購入し本人が伐採し手にいれるのと、原木そのものを購入する三つのやり方がある。

生産者は、これまで昭和30年代以前の薪炭林を主たる原木の供給源にしてきたが、生産の急増で、大分、宮崎、熊本、静岡などの乾しいたけ主産地や、関東地域の群馬、埼玉、近畿圏の京都、奈良、和歌山、徳島など購入原木に頼る度合いの高い生しいたけ産地では原木不足が叫ばれ出した。

関東、近畿、九州地域の産地はこの頃、自県の原木ではまかなえず、比較的、原木資源に恵まれていた福島、長野、山梨、岩手に不足分を求めに走った。

昭和54年、日椎連は供給者の山林所有者、伐木造材業者、需要者の生産者団体などを集め、需要と供給情報の交換で円滑な流通を促すことを狙いにした原木需給安定対策会議を年に数度、開催、同時に購買事業の一環として全国的に原木の斡旋を行っている。

林野庁も昭和56年から、全森連に助成委託し、しいたけ原木対策事業を開始、全国的な原木の需給関係の実績と見込みを調査、情報の提供を行った。

また当時、大分、宮崎などでクヌギ林の造林が毎年、かなりの面積で行われた。日椎連も昭和54年、その流れを加速し全国に拡げるために栃木県烏山国有林にしいたけ部分林を設定しクヌギを造林している。

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9.輝ける黄金時代(前回の続き)

黒腐病など病害虫被害が発生、幻に終わった榾木共済

榾木を腐らせる黒腐病は昔から知られていたが、昭和45年、宮崎県東臼杵郡北方町で春に接種した種菌4万個分の榾木が黒腐病にかかり全滅した。その後、阿蘇、久住、祖母山系の榾場に広がり、昭和49年には宮崎、大分、熊本県などの主産地に大発生した。

原因の追求に林野庁は昭和52年、「しいたけ害菌問題調査委員会」を設けたが、病原菌はHypocrea nigricansのほか、H.schweinitzii, H.muroianaと判明した。

この黒腐病は榾場環境など栽培方法の改善で、その後、次第に下火になっていったが、今度は昭和52年頃から大分県直入郡を中心とした地域にハラアカコブカミキリが集中発生し榾木に多大な被害を与えた。

ハラアカコブカミキリは、もともとは中国北部、シベリア、朝鮮半島、対馬などに分布していたが、福岡県が対馬から持ち込んだ原木について侵入、定着したと思われる。

また、猿や鹿の獣害も各地で発生し、さらに気象災害にも時々、見舞われたこともあって関係者の間で榾木共済を望む声が高まっていた。

そんなことから林野庁は、しいたけ榾木共済について、昭和53年から平成2年までは森林保険協会、その後、平成7まで全森連に助成委託して調査研究を開始した。最終的には「しいたけほだ木共済モデル実施事業」にまで漕ぎつけたが、すでに、その頃は中国産の急増で植菌量は年々、減少し、一方、黒腐病やハラアカコブカミキリ被害も少なくなってきており生産者の榾木共済への参加が余り期待できないということで試験的実施には踏み切れなかった。

とはいえ、群馬県では椎茸農協が昭和40年頃からの全国的な種菌不活着問題をきっかけに昭和44年から榾木共済を実施している。給付金は被害額の20%程度であったが、給付原資は県、種菌メーカーの助成と生産者拠出でまかなっていた。それも平成15年、椎茸農協の解散で消滅した。

乾しいたけの規格、陽の目を見なかったJAS

規格とは、広辞苑では「製品の形、質、寸法などの定められた標準」と定義している。

また、日本農林規格では、規格の果たす役割として「品質の改善、生産の合理化、取引の単純公正化および使用または消費の合理化」をあげている。

規格の意義を簡明に整理すると

① 例えば、1mといえば同じ長さ、1坪といえば同じ広さであることを誰もが共有しているが、それは1mの長さ、1坪の広さという規格があるからである。即ち、規格は品質などについて、人々の相互理解の橋渡し役、つまり共通語的なものといってよい。

乾しいたけでは、例えば、上どんこ、並こうしんなど、きちんとした規格があれば、生産者、流通業者、消費者の何れもが、頭に品柄・品質のイメージが浮かぶというわけである。

消費者は規格があれば安心して買える。定められた品質の保証が担保されるのはもとより、品質と価格の関係も透明化し、商品の比較検討も可能になる。

② 生産者は生産目標の明確化で、品質の改善、向上をはかれる。

③ 最大のメリットは商取引の単純化、公正化で、流通コストの低減が期待できる。

ところで、乾しいたけの規格は、昭和13年8月発行の小松忠五郎商店編集の「乾物類の栞」によると、産地で出来たままの大小形態の不揃えなものを「山成品」、それを問屋では「大撰、中撰、小撰、荒葉(信貫)、桝物、小間、冬姑」に選り分けていた。

また、これら選り分けたものを椎茸の種類では「木干、ドンコ、込椎、信貫、大中斤、カラス、カケラ、大飛椎」に分類、さらに別貫匁もの(重量で測る品物)は「大中斤、中斤、小撰、中形シッポク、小形シッポク」に、升もの(容積で測る品物)は「大撰、中撰、大型茶撰、中型茶撰、小型茶撰、桝物」の呼称がついていた。

昭和30年代には「こうしん」は大きさ70mm以上を「大中撰・大撰」、45~70を「中小撰・中撰」、40~45を「茶撰・小撰」、30~40を「小茶撰・卓袱」、20~30を「小卓袱」、18以下を「小間斤」、「格外品に」分け、「どんこ」は大きさ50mm以上を「漬司(ツブシ)または40~60を大型冬姑」に、18~45を「花冬姑と上冬姑」に分け、上冬姑をさらに「並上冬姑・並冬姑・中玉冬姑」、20以下は「小粒冬姑」に選り分けていた。

これらは何れも業者間の商取引規格で消費者や生産者には通用せず、規格の本来的な役割を果たしているとは思えない。

さらに問題は、同規格でも業者間で品質に差異はあり、また、年によって中身が変わるなど規格とは言い難かった。

日本農林規格は、昭和24年に農林省が乾しいたけの規格表を制定したのが始まりで、昭和26年に日本農林規格が制定され、昭和52年、実施を前提に全面改正し、乾しいたけの日本農林規格(JAS)の農林省告示がなされた。

JASは規格と品質表示がセットになっているが、乾しいたけは「どんこ」と「こうしん」に分けられ、品質は「上級、標準」、大きさは、どんこ「大5㎝以上、中3~5、小2~3」、

こうしん「大6㎝以上、中4~6、小2,5~4」と決められている。

実施には規格認証検査機関の設置を必要としているが、JASは業界内の意見が大きく分かれ陽の目を見ることもなく平成4年に廃止されてしまった。

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10.輝ける黄金時代(前回の続き)

家庭用から業務用へと変化しはじめる

乾しいたけは内需、輸出ともに最高の良き時代を謳歌していたが、わが国の食生活は昭和40年代中頃から、大きく変わり始めていた。

一般家庭の食生活は太平洋戦争前までは主食に一汁一菜、漬物といった質素なもので戦中戦後は飢えに苦しんだ。20年代後半頃からやっと元に戻り洋風化も始まり、その後、高度経済成長に入って食生活は次第によくなってゆくが、40年代後半頃からは全国各地にファミリーレストランが出店するなど外食機会は増加、家庭食も西洋、中華風なども加わり質、量ともに豊かになっていった。

一方、家族形態の変化や、女性の就労率の上昇、加えて余暇時間を有意義に過ごしたいという社会的傾向など、生活スタイルが大きく変貌、家庭では加工品や半調理済食品が入り込み、料理に時間をかけることなく、食は次第に簡便化、また外食化傾向を強めていった。

これらは食の供給側からみると、家庭用の減少、業務用需要の増加を意味しているが、乾しいたけは料理する前に「戻す」という手間暇のかかることもあって50年代後半には家庭消費に影響が出始めていた。

昭和60年頃の需要分野別状況(割合)をみると、家庭用25%、贈答用15%、業務用35%、輸出25%で、年間、1世帯当たりの乾しいたけ購買量(家庭用、贈答用)は最盛期の5割程度にまで減少している。

加工品など、付加価値化への出遅れ

乾しいたけの加工品は缶詰が始まりで、昭和30年代、アメリカなどに輸出された。 41年にはアサヒ物産(株)が「スライス椎茸」を試験的に発売、45年 森産業(株)は椎茸健康飲料「ホレステリンソーダ」47年「モナ・フォレ」、51年 アサヒ物産(株)「椎茸水煮缶詰」、52年 九物食品(株)「フリーズンドライ(FD)椎茸」、53年 阪急食品(株)と兼貞物産が(株)「味付椎茸」、54年 森産業(株)「シイタケ茶」56年 シイタケワイン「エリータ」を、その他、「椎茸レトルト」や「瓶詰」製品なども誕生している。

また50年代には業界有志による「椎茸工業クラブ」結成の動きもみられた。

しかし、生産流通段階での加工品化は、スライス椎茸はおくとして、ユーザーを強く惹きつけるまでには至らず、簡便化など時代のニーズから乾しいたけは取り残されたのは否めない。

日本椎茸振興会解散、国内消費宣伝活動の手が緩む

昭和37年に発足した日本椎茸振興会は、国内ではしいたけ祭り、マスコミへのPRや、しいたけの薬用効果の調査研究、海外では主要輸出先の香港、シンガポール、アメリカなどへミッションを派遣するなど積極的に消費宣伝活動を展開してきたが、47年、その歴史を閉じた。

これまで振興会は、日椎連と全椎商連主導のもとに生産者、業者の拠出金で消費宣伝活動を展開してきた。ところが、45年、全農が椎茸市場を開設、業界へ参入し、宣伝費の徴収が揉め、負担への不公平感が生じ解散に至ったのである。

折から、乾しいたけ消費は順調に伸びており、日本椎茸振興会活動も10年を経過、マンネリ化や飽きもあったのかもしれない。

解散後、代わって、同年、日椎連、全農、全椎商連、全菌協4団体で構成の全国椎茸懇話会(全椎懇)が設立される。しかし、消費宣伝費の団体負担は重荷ということもあって、消費宣伝事業費は限られ、ジェトロとの共同事業の海外宣伝に絞られ、国内宣伝は殆んど無くなってしまう。

その全椎懇も54年、全農が離脱、農協消費拡大協議会を設立し独自に消費宣伝活動をはじめたので解散し、日椎連、全森連、全椎商連は日本しいたけ振興協議会を発足させ、以降、農協消費拡大協、日本しいたけ振興協の二元体制で消費宣伝活動が行われる。

日本しいたけ振興協は、海外はジェトロの支援を受け、東南アジア、欧米にも再三、ミッションを派遣するなど積極的な消費宣伝を行ったが、最も力を入れるべき国内は農協消費拡大協もそうであるが、消費宣伝費も団体負担で限られており、おろそかになったのは否めず、後に咎めを受けることになる。

きのこ界のノーベル賞、森喜作賞が創設される

昭和54年、「公益信託・森喜作記念椎茸振興基金」が中央信託銀行(現中央三井信託銀行)に設定され、毎年、椎茸などきのこ産業の発展に貢献のあった者に森喜作賞が授与される。基金の原資は全国の2千5百有余名の椎茸関係者が1千5百万円余を拠出した。

森喜作賞は、第一部門(きのこ類の基礎、応用的研究に貢献した者、きのこ類の医薬学的および食品、栄養学的研究に貢献した者、きのこ類の資器材開発に貢献した者、きのこ類の流通に貢献した者、きのこ類の普及啓発に貢献した者)、第二部門(優良なきのこ生産者)に分かれている。

きのこ関係新聞、月刊紙が続々と発刊

昭和27年、大分で農業経済新聞社が椎茸の週刊誌「農業経済新聞」を発刊したのを皮きりに28年、日椎連「椎茸通信」、30年、全国椎茸普及会「菌蕈」、44年、森産業「きのこ」、49年、明治製菓「きのこ通信」、52年、きのこ近代化協会「きのこ産業新聞」、55年、農村文化社「きのこetc」などが次々と発刊された。

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11.厳しい冬の時代―昭和61年~平成18年頃まで

食生活は豊食から飽食、ついには崩食へ

豊食の時代と、言われだしたのは昭和50年代に入った頃からである。米を余り食べなくなって肉類や鶏卵などの消費量は主食の米の消費量を抜き去り、食卓には西洋、中華など世界中の料理が入り込み食材も豊かに賑やかになる。

その後も、わが国経済は発展し続け世界第2位の大国となり、食生活は豊食時代を超えて、飽食へと進むが、近年は、さらに独りで食べる“孤食”朝食を抜く“欠食”家族がバラバラなものを食べる“個食”好きなものを食べる“固食”と、これらの頭文字をとればコケッコッコとなることから「ニワトリ症候群」と呼ぶそうだが、ついには食の崩壊がはじまる。

そのような中で、食の簡便化のみならず、スナックや、サプリメント主体での食生活まで現れはじめた。

乾しいたけは、自然健康食品ブームに湧いた昭和50年代は人々の注目を浴び消費を伸ばしたが、それも何時とはなく去ってしまい、このような飽食、崩食の時代の中で見忘れられ家庭における消費を次第に減らしていった。

1世帯当たり年間消費量は昭和50年の417gをピークに、55年235g、60年207g、平成2年193g、7年156g、12年125g、17年113g、20年86gと、ピーク時の5分の1にまで減少してしまった。

かって盆正月、法事など“はれの日”、乾しいたけは “含め煮”“散らし寿し”“巻き寿し”などに欠かせない定番食材であったが、それらの習慣が廃れ、家庭食の中で代わりうる確たる定番料理を持たないことも乾しいたけ離れの一因といえる。

この時期、家庭用に代わって業務用への期待は膨らんだが、国産は業務用の求める安定供給、さらには低、定価格といったニーズに応えることができず給食、外食などの中の極く限られた需要しか掴むことができなかった。

中国産が内外市場に急増

食生活変革の流れが加速する中で追い打ちをかけるように、昭和62年頃から中国産が内外市場に急増する。

国内には、中国産は40年代から100トン前後から200トン入ってきてはいたが、その当時の中国産は、原木栽培ものの天日干しで品質が落ち佃煮に使われるぐらいで国産の競争相手ではなかった。国産が不作で価格が6千円台に高騰した58年には中国産が666トン輸入されているが、さして国産を脅かすこともなく単年度で終わっている。

海外の香港市場では20年代後半から中国産が入りはじめ、日本産との競合を危惧されたが、これまた品質の違いもあって需要の中で棲み分け日本産の優位は揺るがなかった。

ところが、50年代後半(1980年代)に入って中国がしいたけの菌床栽培に成功し生産が急伸しだしたことで状況は一変する。

中国産の国内への輸入が増えだしたのは62年からで、その年、893トン、平成2年2,404トン、7年7,539トン、13年9,253トンと輸入量は鰻登りに増加する。16年以降は農薬汚染などが問題化してきたことから8千トン台へと減少に転じるが、中国産は国内需要量の7割を占めるまでになる。

中国産は、国内だけにとどまらず、日本産の独擅場であった香港、シンガポール、アメリカなど海外市場においても年を追うごとに増加し、わが国からの輸出はやはり62年から大きく減り始める。その年、2634トン、平成4年には790トンと千トンを切り、10年214トン、15年には79トンとついに百トン以下にまで落ち込んでしまう。

中国では菌床栽培技術の確立で生産が中国全土に広がる

1985年前後、福建省古田で菌床栽培がはじまり、日本の優れた種菌の導入もあって新しい栽培技術が確立され、生産は中国南部地域に広がる。その後、1990年代に入ると栽培技術は急速に進歩し、加えて、これまた、日本から入った乾燥機が威力を発揮し、中国産の品質は飛躍的に向上、生産は中国全土に広がっていった。

中国の乾しいたけ生産量は推定ではあるが、1985年以前は原木栽培しかなく、せいぜい4~5千トン程度とみられていたのが、10年後の1995年には5万トンを超え、2000年には7万5千トンにまで急増している。

中国のきのこ雑誌「中国食用菌市場」によると、2004年の生しいたけ生産量は247万トンで、2007年には288万トンにもなっており、今もなお盛んに伸び続けている。

この数字からみると、乾、生、半々にしても乾しいたけの現在生産量は15万トンを超えている。

業者の関心は専ら中国産で、偽装表示も横行

食生活が簡便化、外食化など変革する中で乾しいたけ離れは進み、家庭用が次第に減ってゆくが、業務用は国産の価格が高く、安定的供給にも難があって思うようには伸びず業者には将来への不安や閉塞感がでていた。そんな時、中国産が登場してきたのである。

中国産は国産の半分以下の価格で、欲しい時、必要な数量を簡単に入手できる利便性もあり、その上、利益率は高いということで業者は競い合って中国産の買い付けに走った。

さらに許せないのは中国産の国産偽装で、それも中途半端な数量ではなく、恐らく、千トンを超えていたと推定される。

しかし、中国産が入ってきたことで業務用、とりわけ加工用分野の需要が掘り起こされ大きく伸びたことは確かで、その点は評価されるべきだろう。

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12.厳しい冬の時代 (前回の続き)

慢性的な供給過剰状態に陥り、価格が低落

昭和60年頃、国内需要は9千トン内外で輸出は3千トン余り、当時の国内生産量が1万2千トン前後ということで需給の帳尻がほぼ合いバランスはとれていた。一時的には景気による売れ行きの良し悪しや作柄の豊凶で崩すことはあっても暫くするととり戻していた。

ところが、桁違いに大きい生産力で、しかも価格は国産の半分以下の中国産が入ってきたことで、それは一変する。

それでも昭和の終わりから平成に入った頃は、簡便化、外食化など食生活の変革で、折から拡大基調にあった業務用が、そのニーズを掴んだ中国産によって伸び、輸入量も5千トン未満ということもあって、まだ需給バランスは大きく崩れることがなかった。

しかし、それも輸入量が平成5年頃から7千トン台を超え、さらに8千トン、9千トンと増え続け、一方、業務用分野の拡大にも限界が見えだしたことで需給バランスは崩れて慢性的な供給過剰状態に陥ってしまう。

この時代の内需の需給関係を供給面(国産と輸入量を合わせた数量から輸出量を差し引いた数量)でみてみると,昭和60年8,872トン、平成2年12,074トン、7年には15,067トンに達し、12年14,264トン、17年12,381トンと、国産が主の時代とは比べられないほど大きく増加している。

この間、業務用の伸びは目覚ましかったが、しかし、これだけ大量の需要を生み出しえず、加えて中国の無限ともいえる生産力が控え、絶えずその供給圧力に脅かされていたことも見逃せない。

需給関係が供給過剰になりバランスを崩したことで価格は、昭和60年3,900円、平成2年3,782円、7年2,562円、12年2,568円と、とめどもなく低落してゆくが、15年頃から中国産の農薬汚染が問題化しはじめ17年には3,534円まで持ち直している。

家庭用が減り、業務用が主流となる

これまでの長い間、家庭用を主にしていた乾しいたけは昭和50年代、すでに業務用に逆転され、以降、中国産輸入の増加で業務用は急速に伸びシエアーをさらに広げていった。

家庭用の中でも贈答用は価格の低落で存在意義が失われ激減し、辛うじて仏事用だけが生き残っている。

この間の需要状況を需要分野別にみてみると、昭和60年頃、家庭用25%、贈答用10%、業務用50%、輸出用15%、であったのが、平成17年では家庭用、贈答用を合わせても30%に満たず、輸出用は1%を切り、業務用は70%以上を占めるまでになっている。

生鮮きのこ類では依然、家庭用が主で、業務用は40%にも達していないことを考えると、そのシエアーの高さが分かる。

国内生産は減少の一途を辿る

乾しいたけの生産原価は地域や個人によって異なるので一概にはいえないが、全国的にみて3千5百円ぐらいと考えられるが、それをも大きく割り込む価格の低落で、生産者は再生産意欲をすっかり失ってしまう。

植菌を全くやめてしまったり、手控えたり、或いは生しいたけに切り替えたりする生産者が相次ぎ、新規の参入は殆んどみられず、高齢化は進む一方で、国内生産は昭和60年12,065トン、平成2年11,238 トン、7年8,070トン、12年5,236トン、17年4,091トン、そして翌18年から3千トン台へと生産量を急速に減らしていった。

この数量は50年前の昭和35年(3,431トン)と殆んど変らない。

地域的にみると関東周辺や岩手など比較的、新しい産地の落ち込みが大きく、大分など昔からの産地は減り方が比較的、少ないが、例外は最も古い静岡で大きく減らしている。

業界全体、無力感にさいなまれ、活気を失う

国内生産が急速な減少過程に入ったことで、生産者は言うに及ばず業界全体が激震に揺さぶられる。生産者団体は集荷販売量、種菌メーカーは種菌量が大きく減少、また資器材メーカーは売れ行き不振に悩まされる。

業者は中国産に新たな活路を見出したが、時が経つにしたがい、異業種業者などアウトサイダーや直儒者の食品メーカーの直接輸入が増加し、中国産輸入のうま味は次第に薄れていった。とりわけ悲惨な事態に追い込まれたのは輸出を主にしていた業者である。何れも業界の中では大手に属するが輸出の激減をまともに受け、縮小や内需への転換を余儀なくされ、廃業、倒産する業者も出る。

日本産・原木乾しいたけをすすめる会が発足

消費者の乾しいたけ離れ、中国産の急増、輸出の激減と、国産は三重苦ともいうべき、これまで経験したことのない大変な危機に陥ったといえる。

その苦難から抜け出すべく業界は日椎連、全農、全椎商連が中心になって、平成7年、日本産・原木乾しいたけのシンボルマークを制定し商品への添付表示をはじめる。

引き続き9年、「日本産・原木乾しいたけをすすめる会」が暫定発足し、生産者から㎏当たり15円、業者から㎏当たり5円を市場で徴収、シンボルマークの添付表示と同時に積極的な消費宣伝活動に乗り出した。

さらに翌10年には、正式に「日本産・原木乾しいたけをすすめる会」を立ち上げ、年間、約7千万円の事業費で、テレビ、ラジオ、新聞雑誌などマスコミを通じてのPRや料理講習会など消費宣伝を展開する。しかし、その後、生産量の減少と徴収額の切り下げもあって宣伝事業費は約3,600万円と半減してしまっている。

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13.雪融け、明日への道(平成19年~)

中国産品の農薬汚染、食品偽装が相次ぎ社会問題化

中国産乾しいたけの農薬汚染は平成15年頃からすでに問題視されていたが、19年、ホウレンソウなど幾つもの中国野菜の農薬汚染がマスコミに大きく報じられた。同じ頃、アメリカ、ヨーロッパでも中国産野菜の危険性が問題化し、さらにアメリカでは中国製玩具への鉛使用など、農産品にとどまらず中国産品は危ないとのイメージが世界中に広がった。

それに拍車をかけたのが翌20年1月に発生した有毒メタミドホス混入の中国製餃子事件で、中国産品への消費者の不信は一挙に加速する。

中国産乾しいたけは、以前から農薬汚染が指摘されていただけに、消費者、ユーザーの間に不安は広がり急速に敬遠されるようになる。

加えて、19年には牛肉の偽装事件が摘発され、続いて高級日本料理店の「吉兆」の産地偽装、洋菓子の「不二家」、大福餅の「赤福」などでの賞味期限偽装、さらにウナギの産地偽装など食品の偽装が次から次へと明らかにされ社会問題化する。

乾しいたけは中国からの輸入が始まって暫く経つと急速に品質は改善されるが、その頃からすでに国産への偽装は行われており、食品偽装が社会問題化した当時、業務用はもとより家庭用にまで偽装が広がっていた。

それだけに食品偽装の問題化は他人事ではなく、また消費者、ユーザー、さらには行政の監視の眼も厳しくなり、国産への偽装は急激に減っていった。

このように中国産の農薬汚染と食品偽装が相次いで社会問題化したことで、中国産から国産への振り替わり需要が発生するが、国内生産量は4千トンを割っており、従前からの底堅い需要をまかなうのに精一杯で、それらの新たな需要を満たすことができず19年秋頃から国産の品薄が露わになった。

これまでは、国産と中国産は同じ土俵での需給関係にあったのが、それぞれが得意とする需要に掴み棲み分け、別々の需給関係となったのである。

国産が品薄となり需給バランスが崩れたことで価格は、この年、5千円台にまで急騰する。

しかし、翌20年、アメリカの金融危機を発端に世界的な不況が襲い、あらゆる需要が冷え込み、乾しいたけも価格を下げるが、依然、国産の品薄は解消されるまでには至らず、その後も4千円台を維持している。

食育基本法が制定されるなど、消費環境は好転

現在、日本人の健康状態は6人に1人は生活習慣病に罹(かか)っているといわれ、とくに糖尿病の予備軍は多い、また、直ぐにキレるなど精神的にも不安定な子供が増えているが、これらは何れも食生活の乱れからきている。

人間らしい本来の食生活に立ち返ろうとの動きは、海外ではすでに1986年、イタリアで、消えゆく恐れのある伝統的な食材や、料理、質の良い食品、ワインを守ることや、子供たちを含め、消費者に味の教育を進めること、さらに質の良い食材を提供する小生産者を守るなどを狙いとした「スローフード」運動が始まっている。また、アメリカでは1998年に、健康と持続可能性のある社会生活を重視する「ロハス」が唱えられ、その考えは世界各国に広がってきている。

スローフード運動やロハスは、食崩壊への危機感を募(つの)らせていたわが国にも大きな影響を与え、平成17年には「食育基本法」が制定される。

これまで教育は知育、徳育、体育の3本柱で構成されてきたが、それに食育が加えられたのである。「食の摂り方、選び方」や「旬産旬消」「食に関するマナー躾」などが小学校、中学校の教育の中でも取り上げられ、国民全体が健全な心身を培い、豊かな人間性を育むための食育を国あげて強く推し進めてゆく体制が整ったといえる。

そのような中で「栄養」「嗜好」「保健」など食本来の機能が改めて強く意識されるようになり、これまで見忘れられていた旬や自然食品、伝統食品など本物の食品に陽が差し込み見直し機運がでてきている。

最近、スーパーなど小売店で乾しいたけのアイテムは増え売り場が少し広がっているのも、その現れとみてよい。

“まがいもの”でない“本もの”がうける時代がやってきている。

されど、家庭に消費を呼び戻す道は、なお遠く険しい

家庭における乾しいたけの年間購入量は、昭和50年417gを記録しているが、平成20年では僅か86gにしか過ぎない。

数年前、静岡県藤枝市の小学校で4年生百名余りに、しいたけの話をする機会があった。その折、乾しいたけを好きな人は手を挙げてといったところ、手はパラパラとしか挙がらない、それでは嫌いな人と続いて問うと、これまた少しは増えたが挙がる手は少なく、好き嫌い合わせても3割に達するかどうかであった。其処にいた子供の数に合わないので怪訝な顔をすると、子供たちは口々に乾しいたけは食べたことがないという。

学校給食では全国平均でみて、週に1回は乾しいたけが料理されているはずだが、使用量は1g前後と僅かなので乾しいたけを食べたという意識はないのだろう。

この数字をみても乾しいたけを全く食べない家庭は増えている。

乾しいたけを使わない家庭では、中国産の敬遠も無関係で、消費環境の好転も、関心が薄いだけに直ちに乾しいたけの消費に結びつくとは考えられない。

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14.雪解け、明日への道(前回の続き)

定番料理の喪失で、乾しいたけ離れは加速

冬の寒い日には温かい鍋料理を囲む家庭は多い。主となる食材はその日の好みで肉か魚ということになろうが、野菜に加え、生しいたけ、えのきたけ、ぶなしめじ、まいたけなど生鮮きのこ類も鍋料理の定番食材になっている。食卓にしばしば登場する天ぷらや炊き込みご飯でもそうだが、生鮮きのこ類は料理との相性がよいのか、日常食品化している。

これらの料理で、乾しいたけにお目にかかることは殆んどないが、日常の食事の中で乾しいたけを必ず使うという料理は残念ながら見当たらない。

主婦が今日の献立に、何かの料理を思いついても、料理の種類を問わず、乾しいたけが頭に浮かぶことは極く稀れといってもよいだろう。

乾しいたけは簡便化、外食化など時代のニーズから取り残されたこともあるが、この定番料理を失くしてしまったことが乾しいたけ離れを招いた最大原因といってもよい。

かっては乾しいたけも定番料理を持っていた。昭和40年代頃までは“はれの日”や“法事”などのご馳走に、「含め煮」や「散らし寿し」「巻き寿し」、それに「筑前煮」などが、よく出されたが、乾しいたけは必ず入っていた。この時代、それにもまして乾しいたけには高価な「貴重品イメージ」がつきまとっており、ブランド品と相通ずる消費者を強く惹きつける魅力があった。

その後、食生活は豊かとなり多様化する中で、これらご馳走は次第に埋没してゆくが、代わって50年前後からは、乾しいたけを食べれば健康になるという「自然健康食品イメージ」が、これまで以上に消費者を惹きつけた。特定の料理と結びついたわけではないが、乾しいたけ食の普遍化には役立ち、そのまま日常食品化するかに見えた。

ところが、ブームは去り、食の変革とも重なって、その夢はあえなく消え実を結ぶことはなかった。

とはいえ、数えるほど少なくはなったが、乾しいたけには今も強い愛着心を抱いてくれている人たちがいるのは確かで、その人たちの頭の片隅には、まだ貴重品イメージも残っているようである。60歳以上の高齢層が多く、乾しいたけが大事にされた時代を知っているからに違いない。

それもこの先、核家族化の中で受け継がれることはなく、いよいよ乾しいたけ離れが進む懸念はある。

生しいたけなど生鮮きのこ類に遅れをとる

しいたけと言うと30年ほど前までは乾しいたけを指していた。ところが、今では生しいたけのことで、乾しいたけは頭に乾を付けなければならない。

これからみても分かるが、この30年余りの中で、乾しいたけと生しいたけの立場はすっかり入れ替わってしまった。

生産額では、すでに昭和40年頃、乾しいたけは生しいたけに抜かれているが、生産量は平成5年、乾しいたけ9,299トン(生換算74,392トン)、生しいたけ77,394トンで、逆転は意外に遅い。以降、その差は開く一方で、10年 乾5,552トン(44,416トン)、生74,212トン、15年 乾4,108トン(32,864トン),生65,363トン、20年には乾3,867トン(30,936トン)、生70,342トンと、今では、乾しいたけの生産量は生しいたけの半分以下にまで落ち込んでしまった。

国産乾しいたけは中国産との競争に負けたが、生しいたけ、さらには生鮮きのこ類にも市場を奪われたのは間違いない。炊き込みご飯、茶わん蒸しなど、かっては乾しいたけが使われていた料理は、今、生しいたけなど生鮮きのこ類に置き換えられ、乾しいたけに、あれほど拘(こだわ)っていた中華料理にさえ、今では生しいたけなどの生鮮きのこ類が入り込んでいる。

客観的、冷静な現状認識が明日への出発点

孫子の兵法に「彼を知りて己を知れば百戦して危うからず」とあるが、1年ほど前、朝日新聞の社説「アジアとの共生」の中で、それを今日風に、販売戦略を立てるに当たっては「顧客、市場と社会を知り、自分を知ることこそ王道」と説いている。(22年1月4日号)

乾しいたけは今、どのような状況下にあるかをいろいろ述べてきたのも、孫子の兵法が説く王道を進むためで、現状をきちんと認識しなければ道は見出せない。

ここで再度、整理要約してみよう。

① 中国産が敬遠され、国産の品薄状態が続いている

② 生しいたけなど生鮮きのこ類に市場を奪われ、乾しいたけの居場所は狭められている

③ 簡便化、外食化など食生活の変革への対応の遅れもあるが、定番料理の喪失がこたえ、乾しいたけ離れは深刻である

④ 食育など食生活の見直し機運は高まり、旬や自然食品、伝統食品がよみがえる兆しをみせはじめ消費環境は好転している

以上に現状を挙げたが、生産、流通がかかえる課題がないことに違和感があるに違いない。ここで外したのは、新たな需要を生み出すことにかかわる生産、流通課題はおくとして、その殆んどが乾しいたけの商品としての将来性、つまり顧客がついてくれるか、どうかの需要の確保、拡大とは関係が薄いからである。

供給サイドは業界内部の課題であって、ここで取り上げれば現にそうであるが、焦点はぼけてしまい、乾しいたけにとって今、何が最も必要なのか分からなくなってしまいかねない。

ただ、後では触れる。

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15.雪解け、明日への道(前回の続き)

時代の追い風が吹いている今が、チャンス

事をなすに当たって「天の時、地の利、人の和」が揃えば間違いなく成就すると言われている。

乾しいたけは昭和の終わりから平成に入って20年近く、食生活の変革の中で消費離れを起こしているが、それは乾しいたけに限らず、かんぴょう、高野豆腐、葛(くず)など古来からの伝統食品は皆、同様の運命を辿っている。

食の簡便化、洋風化など時代のニーズにそぐわず、天の時に見放されていたといってよい。中国産の激増もまた同様で、折角の地の利を活かすことは出来なかった。

ところが、食育など食生活の見直しや中国産の敬遠など時代のニーズは明らかに変わってきており、天の時、地の利を活かせる国産乾しいたけにとって願ってもない蘇るチャンスが訪れている。

しかし、追い風が吹いてきたとはいっても、乾しいたけがその風を掴まなければ消費を増やすこともできず空しく通り過ぎてしまうだろう。

風を掴むためには、中国産や生鮮きのこ類との競合、定番料理の再生、また依然、根強い簡便化志向などの課題に真正面から取り組み解決しなければならない。

何れにしても消費者が乾しいたけに関心を持ってくれなければ話にもならないわけで、最も力を入れなければならないのは消費宣伝といってよいだろう。

手を抜いてはいけない中国産との差別化

中国産品のイメージが大きく傷ついているだけに、消費者はまだまだ中国産乾しいたけを厳しい眼でみているが、最近、しいたけ以外の中国産野菜の輸入は増えつつある。

人の噂も75日というが、時と共に嫌な記憶も薄れてゆくに違いない。それを考えると、中国産との差別化をさらに図る必要がある。

他の農産物とは異なり乾しいたけは幸いなことに国産は原木栽培、中国産は菌床栽培と、栽培形態が違い、今の消費者意識とも響きあう得難い強みを持っている。

この強みを活かすためには美味しさや安全・安心面などの点で、さらに中国産との差別化を徹底させることで、同時に消費者に国産と中国産との違いをもっと広くアッピールする必要がある。

生しいたけなど生鮮きのこ類との競争に、どう生き抜くか

10年近く前、ペプシコーラは、競争相手のコカコーラよりも優れているという比較広告キャンペーンをはったことがある。余りにもどぎつ過ぎると批判はあったが、消費者にとっては違いが明確に分かり、それなりの効果をあげた。

生しいたけをはじめ生鮮きのこ類は消費者をしっかりと掴んでいるのにひきかえ、美味しさの点で勝っているはずの乾しいたけが今も消費を減らしていることを考えると、ペプシがやったような違いが際立つ比較キャンペーンを取り入れるべきだろう。

違いのキーワードは、今日の消費者に関心の高い「安全・安心」と「美味しさ」、それに近年、注目を浴びている環境に優しい「エコ食品」である。

国産乾しいたけは原木栽培オンリーであるのに対し、生鮮きのこ類は、生しいたけは25%ほど原木栽培も残っているが、他の生鮮きのこは菌床栽培が主体で、中国産と同様、栽培形態の違いが狙い目である。

乾しいたけが頭に思い浮かぶ料理を世に送り出そう

乾しいたけを使うと味は増し美味しくなる。乾しいたけにはグアニル酸が含まれ、昆布のグルタミン酸、鰹節のイノシン酸とともに三大旨み成分と称され誰もが知っていたが、その後、いろいろの食品の旨みが見つかったせいか、最近は余り聞かれない。

しかし、乾しいたけは料理の質を高める素晴らしい食材には変わりない。

かっては巻き寿しや散らし寿しのように乾しいたけ抜きでは味がしまらない乾しいたけとの相性が良い料理が幾つかあったが、手間暇のかかることが面倒なのか最近は食卓に供されることが少なくなった。

NHK「今日の料理」は10年ほど前に全国の消費者アンケート調査を集約し「21世紀に伝えたいおかずベスト100」を発表しているが、1番は「肉じゃが」、次いで2番目に「散らし寿し」、そして7番目「筑前煮」21番目「太巻き寿し」が挙がっている。

潜在的ニーズは依然、無くなってはいないのである。当時と比べ、時代は本もの志向へと変わりつつあり、乾しいたけが必須食材の料理を蘇らえさせるチャンスである。

正月のおせち料理の「含め煮」、節分は「恵方巻き」、雛節句は「散らし寿し」など、何とかして再び、世に広めたいものである。恵方巻きは京都の風習を大阪の海苔屋が上手くPRし、全国に広げることに成功した代表例である。巻き寿しの中身は、以前は「椎茸」「かんぴょう」「高野豆腐」が定番で必ず使われ、それに「卵焼き」「みつば」も入ることはあったが、今では定番食材が入るのは珍しく、他の食材に置き変えられている。海苔業界との連携を考えるべきだろう。

同時に、例えばカレーライスなどに乾しいたけを使う、新しい定番を作ることにも挑戦しなければならない。

とはいっても「二兎を追うもの一兎を得ず」の喩(たとえ)えもあるとおり、成果は挙げるには、和、中、洋それぞれ1品か2品にとどめるべきで、品数が多くなれば何一つ得られないだろう。根付く目途がついたら、次を考えればよい。

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16. 雪解け、明日への道(前回の続き)

風を掴む今ひとつの手は“話題性”

バナナ人気は、今こそ下火になったが、一時はスーパーの店頭に並ぶと、たちまち姿を消す売れ行きで、バナナのイメージを一新した。そのきっかけは体重100kgをも超すオペラ歌手、森公美子のバナナによるダイエット効果がマスコミに大きく取り上げられたことに始まった。

最近、レンコンにも人気がでているらしい。レンコンを切ると、切断面に幾つかの穴が開いているが、片方の穴から先が見通せることから、先が見えるということで、人を惹きつけるのだという。

人気というのは、想わぬことから生まれ、レンコンに至っては全く他愛もないことのように感じられるが考えてみると、それなりの理由はある。

バナナ人気は、成人ばかりか子供まで、メタボ対策が必要となった現在社会への防御反応であるし、レンコンの場合は世界的な不況に巻き込まれ、先行きが全く見えない中での溺れる者、藁をも掴む心情に違いない。

何れにしろ、人気は、それを受け入れてくれる時代背景、換言すると時代のニーズがなければ出てくるわけはない。

乾しいたけが昭和40年代後半から、自然健康食品として爆発的な人気を博したのも、高度経済成長の最盛期で、光化学スモッグや、カドミニウムなど、各種公害や、自然破壊が全国各地で問題化し、人々が健康とか自然の大切さに改めて気付かされた時代背景があったればこそといえる。とはいえ、嗜好品にしか過ぎない乾しいたけが脚光を浴びることができたのは数多の食品の中で、一番最初に自然健康食品イメージをアッピールしたからである。

健康に良いというのは今も変わらぬ話題性はあるが、多くの食品が健康への効用を唱(うた)っており、その中で特徴を出すことの難しさや、薬事法の規制もあり容易なことではない。

現在、人類が直面している最大の課題、関心は温暖化など地球環境問題である。

太陽発電、エコ住宅や車への助成、エコポイントの導入など、“環境に優しく”は人類の生存をかけた時代の課題である。

イギリスの或る地方では。すでに小売店に並ぶ農産品には店頭に届くまでのエネルギー使用量が分かるフードマイル(輸送距離)や、その農産物の栽培に、どれだけエネルギーを要したかを示す二酸化炭素排出量の表示が始まっているという。

消費者はフードマイルや二酸化炭素の排出量の小さい品物を選ぶ時代が、そこまで来ている。

乾しいたけは環境に負荷をかけない自然の力をフルに活用する半自然的な栽培であるだけに、菌床培地の生産や暖冷房、施設などにエネルギーを多用する生鮮きのこ類、また、他農産物に比べ、二酸化炭素の排出量は比較にならないほど少ない。

乾しいたけは昭和50年前後、時のニーズ自然健康食品の火付け役で話題を呼んだが、今、話題性を求めるとすればエコ食品しかない。それも他農産物に先駆け一番最初にアッピールすることで、はじめて話題性は生まれる。

二酸化炭素排出量が、乾しいたけと生しいたけをはじめ生鮮きのこ類とでは如何に違うかを数字の面で明らかにすることを急がなければならない。

付加価値化に成功すれば展望が拓ける

付加価値化にはいろいろのやり方があり、限りのない世界といえる。

最も一般的なのはスライスなど加工品化で、簡便化志向が強まる中で乾しいたけを引き続き繋ぎとめる役割を果たしている。

しかし、他食品に見比べ、乾しいたけの加工品化の遅れは否めず、スライスを除き、見るべきものは少ない。比較的、うまくいっているスライスにしても規格化がなされてないなど業界対応が十分とはいえない。

本もの志向の時代がやってきたとはいえ、簡便化が後戻りするとは考えられず、また、美味しさなど、より付加価値をつけるためには加工品化は避けて通れない道で積極化する必要がある。

加工品化は付加価値をつける有力な手段といえるが、それ以外の方法もある。

先年、朝日新聞「補助線」欄で紹介されていたが、女性の裸体を模したペットボトルに入ったブランド米「あきたこまち」を、恰好がいい身体を表す「ナイスボディ」をもじって、「ライスボディ」という名前で売り出したところ人気は上々という。

新しい売り方が米に付加価値を与えたといえるが、現に乾しいたけで行われている海苔や茶などとの詰め合わせも付加地価化のひとつである。

かっての「しいたけを食べると健康になる」や、「エコ食品」も、その範疇に入るだろう。

他人(ひと)に乾しいたけを差し上げると、今でも、高価な貴重なものを頂き有難いと感謝されるが、この貴重品イメージも、それに該当する。

或る中華料理店主から聞いた話ではあるが、「天白どんこ」や「こうしん」の優良品を一つずつビニールの袋に入れ、1袋5百円で客に販売したところ、用意していた品は日をおかず、瞬く間に捌(さば)けたという。嗜好品である乾しいたけは安くすれば売れるというものではない。

安くなることは付加価値が落ちることを意味しており、高級感、貴重品感がなくなってしまい消費を減らすことを、この20年間、我々は痛いほど経験してきた。

有形、無形の付加価値化に業界は知恵を絞るべきだろう。

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17. 雪解け、明日への道(前回の続き)

家庭用需要をしっかりと掴むのが第一である

乾しいたけの需要分野別シエアーは現在、家庭用が3割程度にまで減り、業務用は7割を超えている。業務用はこれからも伸びる可能性は高く何とかして食い込みたいが、家庭用が乾しいたけ離れに悩んでいる現在、先ず家庭用をしっかりと固めることが第一である。

家庭において乾しいたけを食べなくなる、つまり消費者の乾しいたけへの関心が無くなれば業務用にも影響を及ぼすのは必至で、業務用の需要をも減らすに違いない。

それに、業務用には中国産という手強い競争相手が厳然と控え、業務用のニーズともいえる価格、安定供給などの面で、国産は到底、太刀打ちは出来ないだろう。

業務用の中で、国産が進出可能なのは安全・安心や美味しさなどに拘(こだわ)りのある給食用、外食用などの分野で、一般的な加工分野では中国産が圧倒的に強く国産に勝ち目はない。

国産も菌床栽培ものであれば業務用の中でも需要を掴めるのではないかとの見方もあるが、価格、安定供給の何れも中国産に敵(かな)うはずはない。

それに、菌床栽培ものが市中に出回れば家庭用にも影響が及ぶ懸念がある。というのも家庭用は原木栽培もの、業務用は菌床栽培ものと棲み分けられればよいが、そんなことはあり得ず家庭用に菌床栽培ものが雪崩れ込んでくるのは明らかで、数年前まで、家庭用に進出してきた中国産に泣かされた同じことが起きるだろう。

折角、国産は中国産や、生鮮きのこ類との差別化で、原木栽培というかけがえのない有利な得物を持っているというのに、手放す愚を犯してはならない。

イメージアップには一にも二にも消費宣伝

中国産や生鮮きのこ類との差別化、また乾しいたけの定番料理の定着化も消費者に伝えることができなければ所詮、独りよがりに過ぎず需要に結びつくことはない。

乾しいたけの持ち味、良さを消費者に、どれだけ上手く伝えられるかが勝負の分かれ目で産業の盛衰がかかっているといっても過言ではない。

自動車メーカーは新車発売時、一週間で10億円規模の広告宣伝費をかけるというが、売れ行き如何が企業の存亡に結びついているからに他ならない。

乾しいたけは自動車産業とは市場規模が比較にもならない零細産業ではあるが、消費宣伝の必要性には変わりなく、乾しいたけ離れが進んでいるだけに尚更、必要といえる。

消費宣伝活動の具体的な方法であるが、これまで仔細に述べてきた乾しいたけの現状に始まり、消費環境や、時代のニーズといった中に、その答えはすべて出尽くしている。

列挙すると

① 中国産や生鮮きのこ類との競争には差別化しか他に方法はないだろう。国産乾しいたけの良さ、中国産や生鮮きのこ類との違いを消費者へ明確に伝えなければならないが、比較広告が最も効果的といえる。

② 乾しいたけの定番料理としては、先ず潜在ニーズの高い“散らし寿し”“巻き寿し”“含め煮”“筑前煮”などの再生、それに新たな定番料理の創出ということになるが、その数が多ければ焦点はボケ、結局、何も得られない。とりあえずは和、中、洋それぞれ1品か、2品に絞り、それら選んだ料理を小売り店頭でPRするのをはじめ料理教室では必須のメニューとし、テレビ、新聞、雑誌などでの消費宣伝、また口コミなどでも、その定番料理を集中してPRすることである。

③ 話題性も同様で、エコ食品のPRを、あらゆる場、あらゆる手段を使い、立て続けに行うことで、初めて話題性が生まれる。

④ 乾しいたけに無関心な者を呼び戻すには、店頭での試食や料理教室など、直接、乾しいたけに触れ、口で味わい、耳から情報を入れる、つまり五感(目・耳・口・鼻・皮膚)に訴えることで、エコ食品など話題性も加え、全国各地で、店頭試食、料理教室などの機会を可能な限り多く持つことである。

⑤ さらに、子供の時代から乾しいたけに親しんでもらうには、気の長い話ではあるが、現在、業界が行っている小学校への「ほだ木供給事業」も先の事を考えると意義はある。

料理教室は広い大海の水を柄杓で掬うようなもどかしさ、また子供たちの椎茸栽培も効

果は直ぐには表れないが、乾しいたけへの親しみの輪が広がるのは確実で、無関心層には、肌理(きめ)の細かい地道な努力の積み重ねていくしか手はないだろう。

何れにしろ消費宣伝には“PRのターゲットは誰か”“何を訴えるのか”狙いを明確にするのが、先ず、何よりも必要である。

現在、乾しいたけを使ってくれている人は勿論、大事だが、乾しいたけに無関心な人たちにも働きかけなければ消費は伸ばせない。

主婦の7割はスーパーなど小売店に入ってから献立を決めるというが、その時、乾しいたけを使った料理が思い浮かぶか、どうかが勝負で、それを考えると、消費者のみならずスーパーなど小売店への働きかけが大変、重要で見忘れてはならない。

それにしても現在の乾しいたけの消費宣伝費は余りにも少額で、1億円規模ぐらいまで増やさなければ成果は得られないだろう。

乾しいたけ産業の明日は一にも二にも消費宣伝にかかっている。

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